茂木怪異録

 

茂木教授は、幼少の時分から怪異に魅入られていたという。
あるいは、怪異の方もまた教授を好いていたのやもしれない。

茂木教授は、氏が修めていた民俗学の分野ではあまり有名ではない。
しかし、怪異譚についてとなれば、大家と呼ぶべき人物だった。

これらの掌編から成る記録は、教授が古今東西を渡り歩き、
生涯をかけて蒐集してまわった怪異譚の、ほんの一部である。            

【茂木怪異録 編者まえがき より】

【壱】

山越えに道を失った旅人が、打ち捨てられた塚の横で休んでいると、ふわふわと雪のように白く舞う儚い光を見た。
誘うように飛ぶ微かな灯りを頼りとして歩き人里に降りると、光は名残惜しげに旅人の周りをくるり飛び、山の中へ消えていった。

塚には、山神に捧げられた子の像が祀られていた。

【茂木怪異録 薄雪蛍 より】

【弐】

民家に泊まった早朝、暑かったので桶を借り打ち水に出た。大きく柄杓を振って軒先に水を撒くと、くあんと一声、狐の声がして、目の前を強い風が吹き抜けた。
声のしたあたりを見ると何か大きな動物が寝そべっていたように、そこだけ乾いた地面があったという。

【茂木怪異録 虚狐の怪 より】

【参】

それは議論の場にふと現れ、ふと消える。
古い昔からごく最近に至るまで遭遇者が絶えず、その姿は子どもであったり、背の高い女や、髭の長い老人であったりする。彼がいる間は誰も、彼が誰であるかを気にせず、疑わない。
そして、彼が何かを喋る時は、どこからかカチリと音がするという。

【茂木怪異録 機械仕掛けの神 より】

【四】

ある海女が、海の底に黒珊瑚が群生しているのを見つけた。
土産に一本折り取って上がろうとすると、足に何かが絡みつく。

握っていた黒珊瑚までもがぐにゃりと曲がり、海女がたまらず手を離すと戒めは解けた。
なんとか浜に上がった海女の足には、蛇に巻きつかれたような鱗の痕があった。

【茂木怪異録 黒珊瑚の怪 より】

【五】

夢に幾度も同じ男が現れ、青褪めた顔で、夕暮れを返せと乞う。
何のことかと首を捻るうち、夢の始まりは海辺にある実家の周りに塀を立てた日であると気づいた。
急ぎ行って見れば、荒れた庭には、塀に力なくよりかかる豆の木があった。
西日の海が見やすい場所に植え替えた日から、その夢は見ていない。

【茂木怪異録 刀豆の夢より】

【六】

壁の穴や池などを見ると、ついつい覗き込みたくなってしまうものだが、そういう時、自らに向けられる視線には気づきにくいことを注意しておかねばならない。

あるとき池の底を覗き込んでいると、ひやり、と背中に視線を感じた。

振り返らずにそっと池の水面を見ると、雲の隙間からこちらを覗き込む、大きな赤い目玉が映っていた。

【 茂木怪異録 覗き込む怪 より】

【七】

ある一家が、古民家を潰して家を建てた。

しかし住み始めると、新築なのに廊下の床を踏むたび悲鳴のようにきしむのだ。

幼い子供らはぎいぎい、きいきいと泣き喚く床の声を哀れんで泣き出す始末で、一家はおそるおそる廊下の端を通らねばならなかった。

耐えかねた一家が業者を呼んで床板を剥がして見ると、板の裏にはさまっていた小さな鬼が慌てて這い出し、きいきい騒ぎながら部屋の隅へ消えた。

【茂木怪異録 先住の怪 より】

【八】

とある高層ビルで上りのエレベーターに乗ると、後から乗りこんでくる人がある。

何階ですかと問うと、丁寧に「49階を、お願いします」と言うのでボタンを押すと、また丁寧に会釈をする。

作り物のようで、印象に残らない人だと思いながら自分の階で降りた瞬間、49階は存在しないことに気づいた。思わず振り返ると、閉まる扉の隙間に奇妙な影を見た。

【茂木怪異録 49怪 より】

【九】

背の高い黒い人影のようなそれは、たびたびガード下にいた。

人間であれば目鼻口がついているであろう場所には、千切れた線路のようなものが貼りつき、頭から生えた車輪は、がたついてからからと音をたてながら回っているのだ。

私がそれを見たのは子供の時分であったが、数十年の月日を経てその地を訪れた時、それは同じようにガード下で、何をするでもなく立っていた。ただひとつ昔と違っていたことは、それがガードの天井に届かんばかりに大きくなっていたことだ。

【茂木怪異録 ガード下の怪異 より】

【十】

森近くの川で釣りをしていた時、釣った鮭の入ったびくに入ろうとする黒い獣を見た。
獣が完全に入り込んだのを見計らい、持ちあげて中を覗くと、魚をくわえた黒い兎と目が合う。
驚いている間に黒兎は跳ね上がって何度か空を蹴り、深い森の闇へと消えた。

【茂木怪異録 黒兎の怪 より】

【十一】

閉館した映画館で人知れず、映写機が動き出すことがある。
上映されるフィルムのタイトルは「夢」。
いつも違う人物の人生を追った記録映画だが、突然に終わってしまう。
決まって主人公が不慮の死に見舞われるのだ。

【茂木怪異録 映写室の怪 より】

【十二】

全国をまわり怪異を集めていると、妙に怪異の多い地域というのがあることに気づく。
そこには必ず、「カミユイ」がいたのだ。

落ちぶれたカミの類を怪異へと変じさせている「何か」。
怪異なのか人なのかカミなのかもわからぬそれを、私は長年追い続けている。

【茂木怪異録 カミユイ より】

【十三】

ある民家で、飼い犬が自らの小屋の中を見つめて唸り声を上げていた。

さてはハクビシンか何かが入り込んだな、と 箒の先を入り口から差し入れると、突然何かにものすごい力で引っ張られ、長い箒は小さな犬小屋の中に消えた。

家主は怯える犬を抱えて人を呼び、小屋を取り壊したが、箒は見つからなかった。

【茂木怪異録 犬小屋の怪 より】

【十四】

これはとある山あいの部落に伝わる伝承で、嘘ばかり吐く者は雀に舌を切られるのだと言う。
他にもこの部落には妙な伝承が多くあり、事実として信じられている。

しかしそれらを否定する村人もいると言うので、私は彼らの家を訪ねたが、誰も皆一様に口が固く、とうとう口を開いてはもらえなかった。

【茂木怪異録 舌切り雀 より】

【十五】

欧州のとある古い町を訪れた時、地図に無い小道に迷い込んだ。
道を失った私の前に、長く薄い襟巻きで顔を覆った紳士がどこからともなく現れた。

彼はこの辺りの道に明るいようで、私を正しい道へ戻してくれた。
礼を言って振り向いた私は石壁に鼻を擦り、来た道が無くなっていることに気づいた。

【茂木怪異録 煉瓦道の紳士 より】

【十六】

山路を歩いていると、奇妙なものを見た。木に点々と巨大なミミズなようなものが引っかかっているのだ。しかしミミズにしては形が妙な気がして、近くに寄って見れば、全て鱗を失った蛇であった。道奥にちらりと蛇の鱗を身につけた何かを見て、私はすぐ来た道を引き返した。

【茂木怪異録 鱗剥ぎの怪 より】

【十七】

ある女性が左側の耳鳴りを訴えて私の元を訪ねて来た。憔悴し切った様子の女性は、耳の中に何かがいるのだと訴えた。私は半信半疑で彼女の左耳に自らの耳を寄せ、すぐに後悔した。何十人もの老若男女のざわめく声が押し寄せて、私の耳の中へ入って行ったのだ。

【茂木怪異録 耳騒の怪 より】

【十八】

真夜中、台所の勝手口から帰る時に下駄で何かを踏んだらしく、ぱきりと音が聞こえた。落とした野菜だろうと思った私はそのまま寝たが、その晩、巨大なものに踏み潰される夢を見た。ぱきりと骨が折れるような音に目覚めると、枕元のお守り鏡が割れていた。

【茂木怪異録 己を踏んだ話 より】

【十九】

常に帽子を被って、絶対に取らない男がいた。身寄りのないその男が死んだ時、供養した村の者たちは、帽子の布が男の頭に直接縫い付けられていたことに気付いて気味悪がり、そのまま火葬にした。火から上げた頭蓋骨には、帽子の骨が生えていたと言う。

【茂木怪異録 帽子の怪人 より】

【二十】

近頃顔を見ない友人の家へ出向くと、中から美しい歌声が聴こえてくる。半ば無理に押し入って問い質すと、友人は自慢げに、桐箱に入った猫の首が歌う姿を私に見せた。是非譲ってくれと頼むと友人は激昂し、私を外へ追い出した。身も心もあの首の虜となったのだろう。後日再び電話をかけた時、彼の声を聞くことはできなかった。

【茂木怪異録 首憑きの怪 より】

【二十一】

夏の日のことだ。散歩の途中、見知らぬ童子がそばへ来てしきりに「にい、にい」と呼ぶ。「私はきみの兄さんではないよ」と言うと、今度は私の裾を引いて「みん、みん」と言う。「何を見ん?」と問えば、童子は「じい、じい」と言う。童子を追うと、暑さに倒れた老人を見つけた。童子はどこぞへ消え、老人の胸には夏の虫の抜け殻があった。

【茂木怪異録 蝉童子 より】

【二十二】

土蔵の棚に奇妙な空間があることに気づいたのは、数年前のことだった。まだ青い蜜柑をひとまず置いていたら、翌日には熟し、三日後には全て腐っていたのだ。若い酒を置くのにはいいが、よくそこに触れる右手だけ皺が増えるのには困りものである。

【茂木怪異録 土蔵の怪 より】

【二十三】

罪によって地上へ追放された月の人が埋まる地は、すすき野になると言う。秋になり月が近づくと、望郷の想いに駆られたすすきの穂は、月へと手を伸ばすのだ。うっかり月の人が眠るその地を踏んだ者を、彼らは話し相手として土の中へ迎えている。

【茂木怪異録 月人芒 より】

【二十四】

山路をゆく二人の旅人が、無人の古寺を見つけた。一夜の宿と決め、中で話していると、相槌を打つように銅鐘の音がする。「やい、誰かいるな」と一人が叫ぶと、まるで鐘の中で叫んだようにくぐもった声で「やい、誰かいるな」といらえがあった。二人は頭がくらくらとして、翌朝まで気を失ってしまった。

【茂木怪異録 銅鐘の怪 より】

【二十五】

山間の村落に泊まった時、厠の戸が開かなくなり、閉じ込められてしまった。 誰か出してくれと叫んでいると、助けてやろうか、と声がする。 見上げると天井窓から、私の身の丈ほどに長い毛むくじゃらの腕がぶら下がってきた。慄いて隅で震えていると腕はしばらく私を探すように厠の壁を叩いていたが、やがて諦めたように引っ込んだ。あっさりと開いた厠の扉には土色の手形が残っていた。

【茂木怪異録 蜘蛛猿の怪 より】

【二十六】

人が失踪すると噂の廃ビル群を訪ねたことがある。奇妙なことに、町の人々が口々に「廃ビルが立ち並んでいる」と言う場所に私が見たのは、懐かしい風情の賑やかな商店街であった。商店街を歩く人々は、写真で見た失踪者たちに、不思議とよく似ていた。

【茂木怪異録 去る町の怪 より】

【二十七】

恐ろしく賭けの強い男がいた。如何様師相手にすら負けなしの強運と読みは、称えられる一方で常に如何様も疑われたが、うらぶれた風体の彼が賭けたのはいつも一晩の酒代のみ。彼と博打を張った者はツキが良くなると、皆、負けても喜んで酒を奢ったものだ。

【茂木怪異録 ツキのある話 より】

【二十八】

旅の道中、同じ安宿に泊まっていた怪しげな商人に、厄除けの守り袋を勧められた。どうやら、宿の者全員に売りつけているようだったが、胡散臭いものにはとりあえず手を出す性分でひとつ買った。商人が宿を発った次の晩、前触れなく破れた袋の隅から、生米がばらばらとこぼれ落ちた。米は床を一度叩くと跳ね上がって16匹の白鼠へと姿を変え、私の財布を掠め取って一目散に宿を走り出た。慌ててあとを追い飛び出ると、背後で建物が崩れる音が響いた。

【茂木怪異録 米粒鼠 より】

【二十九】

濃い霧の日、突然友人が家へ飛び込んできた。なんでも、道中急に霧が濃くなり、どこかからか「ぽん、ぽん」と誘うような鼓の音がしてきたのだと言う。化かされぬようにと耳をふさいで駆け抜け、手近な私の家に飛び込んだのだと。無事にたどり着けて何よりだが、音はどうなったのだと訊ねると、友人は浮かない顔で、「ちょうど笛が加わったところだ」と答えた。

【茂木怪異録 耳楽の怪 より】

【三十】

我々のような人間が最も恐れる怪異がある。これは昨夜のことだが、貴重な資料に目を通す途中で居眠りをした。目を覚ますと、書かれていたはずの文字がごっそり抜け落ち、残りは逃げ場を探すように紙の上を這い回っている。やられたと叫ぶ間もなく、黒く細長い舌が墨壺から飛び出して、全ての文字を舐めとってしまった。

【茂木怪異録 墨喰う怪 より】

( 中略 )

彼がこの膨大な怪異録の完成原稿を残し失踪を遂げたことは、
本書を締め括るのに相応しい怪異と言えるだろう。
茂木教授の消息について、お心当たりのある方は巻末の当編集部までご連絡ください。

【茂木怪異録 編者あとがき より】


気が向いたら三十一以降も書くかもしれません